コロナ騒動の最中にがんが見つかった叔母の話

がん

新型コロナのニュースで持ち切りな4月上旬、わたしのスマホに登録のない番号から着信があった。

怪しいと思いながら電話に出ると、10年くらい連絡を取っていなかった1個下のいとこからだった。

「もしもし。ご無沙汰してます、ひろちゃん」
「お、おー。久しぶり。よくこの番号が分かったね?」
「母さんの電話帳に載ってたから」

こんなときに突然連絡してくるのだから、イヤな予感しかしなかった。

「な、なに?急に。どうした?」
「い、いやね。母さんの件なんだけどさ」
「う、うん」
「がんが見つかってさ。検査入院したんだよ」
「えっ?」
「去年の年末くらいからさ。腹痛いって言ってたんだよ」
「で、病院に行ったんだけど、なかなか原因が分からなくって」
「それで?」
「最近になってやっと原因が分かったんだよ…、すい臓がん」
「えっ、すい臓なの…」

すい臓がんと言えば、56歳で亡くなったアップルの創業者、スティーブ・ジョブズを思い出す。
すい臓がんは、異常があってもなかなか見つからず、見つかったときには進行していると言われている。

「そう。ステージ3」
「え、あ、ステージ3…」
「あれ、今いくつだっけ」
「73歳」

わたしの人生を変えた叔母

親族の中で最もお世話になったのが、亡くなった父の妹である叔母だ。

わたしが18歳で上京したとき、大学の受験会場まで連れて行ってくれた。

当時は、インターネットも携帯もない時代。岩手から見る東京は、ものすごく遠いところにあるように思えた。とにかく情報のない時代だったから、ワクワク以上に恐怖心が勝った。

亡くなった父は、どうしても息子を岩手から出したくなかった。

わたしは新聞奨学生になってでも、東京に行くと言い張った。

父とのケンカが絶えなかったころ、たまたま叔母が勤めていた上野駅のキヨスクで、大学生の契約社員をテストで雇おうという話があった。

きょうだい思いの父も叔母のところで働くのなら安心と、わたしの東京行きを渋々認めた。

わたしは契約社員として、キヨスクの社員寮に住むことになった。

販売員の大人たちに混じって、18歳のわたし1人が大学生の寮生となった。

昼間は普通に大学に行き、授業が終わったあとは21時~24時まで駅売店で働く生活を4年間やった。

寮費が月5000円、給料は月8万円くらいだったので、生活に余裕があり、親の仕送りなしで卒業することができた。

当時の上野駅は東北新幹線の始発駅で、今の東京駅のような賑わいだった。さらに常磐線、高崎線、宇都宮線の始発でもあった。

当時のキヨスクで忙しかったお店は、電車にボックス席がある高崎線、宇都宮線、常磐線などだ。

狭いキヨスクに押し寄せるサラリーマンを相手に、ビール、たばこ、剣先するめ、東スポを暗算しながら売りまくった。電車に乗る前のサラリーマンはとにかく急いでいるので、スピードが求められる。

販売員のサポート役として、21時30分には5番線の高崎線のお店、22時には12番線の常磐線のお店と、ダイヤに合わせて激混みの店を転々と回った。

お釣りをすぐ出せるよう、10円玉4枚のセットを大量に作り、釣り銭を取る手数を減らして、客を大量にさばく技術を身につけた。年末年始はお土産店に入って、銘菓ひよこや三笠山(どら焼き)を売りまくった。

同級生は大学のサークルに入っていて、ちょっと憧れた。キヨスクはバイトではなく「仕事」だったから、どうしてもサークルに参加する時間がなかった。契約社員とは、そういうものだ。

あれから30年経った今でも、上野駅に行けばキヨスクを思い出す。今はコンビニ形式のお店ばかりだけど、当時の販売員は本当に職人芸だったと思う。

叔母は自分にとってのターニングポイントを作ってくれた。

東京に行かず、岩手で進学していたら、自分の人生は全く違う方向に進んでいたと思う。

わたしが上京してすぐに、父は母や祖母を置いて、岩手の家を出て行った。

つい最近まで、わたしが父の反対を押し切って上京したから、家を出たのだと思っていた。

亡くなる直前に父に聞いたら、これはきっかけであり理由ではなかったらしい。両親にしか分からない何かがあるのだ。

母の認知症が進行したので、本当の理由は分からずじまいだ。

父の葬儀のとき、初めて自分が介護作家として活動し、本を出していることを叔母に伝えた。

叔母は自分のことのように喜んでくれて、わたしの本をたくさん買ってくれた。

地元の新聞に掲載されれば、「新聞みたよ」と電話をかけてくれた。

今からきっと、抗がん剤治療が始まるだろう。

新型コロナの影響もあって、そう簡単にお見舞いに行ける環境にない。

東京に居るわたしは、ただでさえ感染源として警戒される存在だ。

一方でわたし自身も、この時期に病院へ行くことは避けたい。

でも行っておかないと、という気持ちもある。

コロナの影響がまさか、こんなところにもやってくるなんて。

今できることは、ただ祈るだけ。

東京の家にある父の仏壇に、毎日同じお願いをしている。

「おやじ。叔母が三途の川を渡ってきたら、追い返してよ」

コロナが終息するまで、頑張って生きていて欲しい。会いに行きたいから。

今日もしれっと、しれっと。


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【わたしの書いた最新刊】
東京と岩手の遠距離介護を、在宅で11年以上続けられている理由のひとつが道具です。介護者の皆さんがもっとラクできる環境を整え、同時に親の自立を実現するために何ができるかを実践するための本を書きました。図表とカラーで分かりやすく仕上げました。

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工藤広伸(くどひろ)介護作家・ブロガー
1972年岩手県盛岡市生まれ、東京都在住。
2012年から岩手でひとり暮らしをするアルツハイマー型認知症で難病(CMT病)の母(80歳・要介護4)を、東京からしれっと遠距離在宅介護を続けて12年目。途中、認知症の祖母(要介護3)や悪性リンパ腫の父(要介護5)も介護し看取る。認知症介護の模様や工夫が、NHK「ニュース7」「おはよう日本」「あさイチ」などで取り上げられる。

【音声配信Voicyパーソナリティ】『ちょっと気になる?介護のラジオ
【著書】親の見守り・介護をラクにする道具・アイデア・考えること(翔泳社)、親が認知症!?離れて暮らす親の介護・見守り・お金のこと(翔泳社)、医者には書けない! 認知症介護を後悔しないための54の心得 (廣済堂出版)ほか