ブログ読者の皆さまから、富士山行きに関するアドバイスを頂き、ありがとうございます。 今回の富士山行きは延期となり、多くのアドバイスどおり冬に連れて行こうか、でも母には厳しいかな・・・と悩んでおります。
また読売新聞朝刊全国版の「ケアノート」掲載(10月9日)の件も、「見たよ」とご連絡頂き、ありがとうございます。記事も写真も大きかったので、気づいた方も多かったみたいで。
さすが日本一の発行部数・読売新聞朝刊(全国版)、全国の皆さんが読んでいらっしゃるのですね。7月の雨の日、東京・大手町にある読売新聞本社で取材を受けたのですが、写真のある部分を見て雨だったことを思い出しました。
昨日、母の要介護認定が2年ぶりに行われました。
いつもケアマネから、要介護認定の日程調整の連絡が来るのですが、市からも「要介護認定の更新申請について」という書類が来ました。
おそらく毎回この書類は届いていたと思うのですが、わたしが見るのはこれが初めて。母宛てにこの書類を送ったとしても、母は理解できないし、提出もできません。要介護状態にある当人宛てに送るのは、同居している家族を想定しているのでしょうか?
うちの要介護認定ワースト2
わが家の要介護認定は、過去にいろいろなドラマがありました。一番ひどかったのは、亡くなった父の要介護認定です。
要介護認定の結果が出るまで、一般的には30日と言われていますが、父は80日もかかりました。理由は父に末期がんの余命宣告(1か月~3か月)をした医師が、主治医意見書を書かなかったからです。
自分で余命宣告し、残りわずかしか生きられないことを知っていながら、なぜにすぐ意見書を書かない!暫定ケアプランで介護保険サービスを受け続け、認定結果が出たのは、父が亡くなったあと。「要介護5」・・・知らんがな。
二番目は、母の初回の要介護認定です。7年前のことです。
市の調査員から「お母さんは普通に質問に答えてましたよ、特に認知症っぽい感じもしませんでした 」と言われ、当時東京で会社員だったわたしは、電話越しで必死に症状をアピールしました。
要介護認定は母が頑張っちゃうから、わたしが立ち会わないといけないと学習した瞬間でした。
今回の要介護認定
今回は盛岡市から依頼を受けた、他の居宅介護支援事業所のケアマネさんが調査員としていらっしゃいました。
わたしの要介護認定対策は、母の不正防止です。部屋にあるカレンダーや年齢を示したろうそくなど、母がカンニングしそうなものは、すべて部屋から取り除きました。チラ見して、知っているふうに母は答えるのです。それができるだけでも、すばらしい!とは思ってます。
調査員の方は、認知症に関する質問を、柔らかく気をつかいながら質問してくださって、いい方でした。夜中に大声出すかとか、歩き回るかとか、割とストレートな質問が続きますからね、要介護認定は。
で、今回もまた奇跡が。
調査員:「今の季節はなんですか?」
母:「秋」
季節感のない母ですが、要介護認定のときだけ、正解言うんですよ。年齢を奇跡的に当てたときもありました。
しかし、調査員がティッシュ、せんす、眼鏡の3つを母に提示し、5分後に答えるという問題は、全問不正解でした。軽度認知症の頃は奇跡もよく起きましたが、最近はたまにしか起きません。
調査員の方も、うちら親子の要介護認定の様子に「親子そろって、ずいぶんポジティブですね」と言ってました。ってことは、他の家の要介護認定は笑いがなく、緊迫感あるんだろうなと。
母は質問に対しての回答が長すぎるし、あれ・こればかり言います。でも人が来てうれしいのか、楽しそうに話します。わたしもいいタイミングでツッコミを入れないと、エンドレスに話すので笑いながら止めます。
父と母合わせて、5回目?6回目?も要介護認定をやっていると、余裕があると言いますか、今回はどんな人が来るんだろう?としか思ってません。
また、上限を超えて自己負担にならなければ、要介護1でも2でも3でも、どんな判定でもいいかなと思ってます。要介護度=母の幸福度ではないですし、判定結果で落ち込んでもしょうがないですしね。お金は少し気になりますが。
母には悪いと思いつつ、調査員にはストレートに普段の母の様子を説明しています。医師の前でもそうするようになったのは、その様子を全く覚えていないからです。
昔はメモ書きを調査員に渡したり、別の部屋で説明したりもして、母を傷つけないよう配慮しまくっていたのですが、今はやってません。母は覚えてなくても、イヤな感情を残すかな・・という思いはあるので、「慎重な」ストレート(意味不明)さで伝えています。
なので、今でも「認知症」という言葉は母には使いませんが、尿便失禁の話とかはそのまま伝えました。
現在、要介護2。どういう結果になるか分かりませんが、母の「ありのまま」は伝えられたと思います。
必要以上にオーバーに言う家、本人が頑張っちゃう家、世間体を気にして「なんでもできる」と「 家族が 」言ってしまう家、要介護認定はいろいろなドラマがあります。
母はムダ話が多すぎて、あとで疲れてました。要介護認定というよりかは、初めて会う人に、自分の難病のことやひとりで生活している自慢ができてうれしいようでした。
今日もしれっと、しれっと。
初めまして。新聞記事を拝読して,投稿しております。
同郷,還暦男性,3人きょうだいの第1子,長男です。
約10年前,父母を亡くしました。いずれも生前,認知症を患いました。
父は脳血管性,母はアルツハイマー性でした。
母が先に発症し,まだ健常だった父が面倒を見ていましたが,2度目の徘徊でネを上げ,SOSが来ました。
当時,私は転勤族で栃木に住んでおり,仕事で身動きが取れなかったので代わりに家内が帰盛。
通院付き添い,市役所への申請,緊急避難的な入院先の確保等月に2,3回行き来してくれました。
3年後,今度は父が発症。発覚の端緒は,追突事故の加害者になったことです。
当時は青森で暮らしていました。見たことのない番号からケータイに受信,盛岡東警察署でした。
「○○さんですか。お父さんの〇〇さんが交通事故を起こしまして」
泡を食って駆けつけたら,調室でぽつんと座っています。警察も父の異様な様子を察知,埒が明かないと見て息子に身柄の引取を要請してきたものでした。
被害者の方への謝罪,保険会社への報告,事故車両の廃車等事故処理を済ませ,先行した母と同様の手続を踏みますが,頑迷な父は一筋縄でいきませんでした。「うるせえ」「馬鹿にすんな」「若造」悪態三昧,閉口しました(ちなみに病状が固定したとして県立中央病院からリハビリ病院に転院,そこの処遇がひどかったです。ひねくれ者とはいえ,患者相手に虐待がありました)。
二人とも施設介護に落ち着きました。私自身も職場に泣きを入れて降任,盛岡に戻してもらい,住まいが施設徒歩3分,行き来がだいぶ楽になりました。
ときの経過とともに,母は疎通が全く図れなくなります。対して父は「まだら呆け」で,たまに正気に戻ります。最後は要介護度5でした。
遠方に住む弟や妹家族は変わり果てていく様子を嘆いていましたが,私にとっては日常でした。
先に母,10日後に父。夕方,施設から急報を受け,駆けつけるともう往診医師が脈を取っていました。
サバサバした医師で,「医者思いだねえ。診察時間終わってからご臨終だなんて」「お父さん寂しくてあと追ってたよ」。
両者,最期を看取りました。不思議と感情が湧きません。人の死をまざまざと見せつけられ,ああ自分も土に帰るのか,が感想です。
テレビの向こう側の社会問題が,いきなり我が家に降り掛かってきました。
家内には,本当に頭が上がりません。
家内の親が健在です。次は,私の出番だと思っております。生きていればの話ですが…。
減速生活者さま
読売新聞をご覧頂き、ありがとうございます。
同郷の方からコメント頂けて、うれしいです。
奥さまがそこまで対応してくださったこと、そして次はわたしの出番と思っていること、すばらしいと思います。少し下の世代になると、奥さんは自分の両親を、夫は夫で自分の両親を介護する人が増えています。わたしも2人看取りましたが、手続きや喪主が忙しくて、淡々とこなしていた感じです。感情がうごめくのはきっと、長くそばで介護した母の時かなと思っています。