「介護は先が見えない、いつまで続くか分からない」とよく言います。
わたしもそう思って介護していた時期もあったのですが、今は「介護は明日にでも終わるかもしれない」と考えることのほうが多くなりました。
なぜ、そんなふうに思うようになったのでしょう?
「介護は先が見えない」と思わなくなった3つの理由
割と介護初期から「介護は明日にでも終わるかもしれない」と思うようになった理由は、川崎幸クリニック院長・杉山孝博先生の著書の影響です。
認知症の人は、普通の人より2倍から3倍のスピードで老化する
引用元: 家族が認知症になったとき本当に役立つ本
認知症に限った話ではありますが、認知症介護を始めてこの言葉を目にしたときは、結構ドキッとしました。思っている以上に、介護する時間は短いんだなと。
2つ目に、親の年齢です。
母は76歳。女性の平均寿命まで、10年以上時間はあります。それでもこの年齢なら、風邪やケガなど、ちょっとしたことがきっかけで、一気に健康状態が悪化し、最期を迎える可能性は若い頃より高いです。
最後に自分自身。
わたしも運よく、今は健康に生きておりますが、病気やケガ、事故など、未来に何が起きるのかは分かりません。自分の人生も、この先長いのか短いのかも正直なところ分かりません。
自分がこの先も長く生きていられる前提で考えるなら、介護も長くなるかもしれません。でも、その前提で考えることができないので、思っているほど介護も長くないかもと考えてしまいます。といいつつ、現在介護8年目です。長いと感じているかといえば、そうでもないと思ってます。
以上3つの理由から、「介護はまだまだ続く」という意識よりも、「自分も母も明日も元気でいられるかな」という意識のほうが強くなってしまいました。
ひょっとすると、「介護は先が見えない」って思い始めると、自分がつらくなるから、そういう発想に転換したのかもしれません。
毎日毎日、介護で大変な思いをしていれば、時間が経たずにとても長く感じられると思います。そうすると、いつまでも介護が続くように思えてしまうかもしれません。
もし明日介護が終わることになって、最期の夜に母とケンカしてしまったら、一生後悔するはずです。最期ぐらい優しくしておけばよかった、笑顔で終わりたかったと悔やむはずです。
そうならないようにするために、日中ケンカしたとしても、おやすみの挨拶の前は、心穏やかでいる努力をしています。遠距離介護で1週間滞在中も、途中で言い争いがあったとしても、最終日はにこやかに終わるようにしています。
この帳尻合わせに意味があるのか?と言えば、意味はほとんどないのですが、一生後悔を引きずるのは避けたいので、いつの間にか習慣になりました。
亡くなった父との最期の瞬間は、一緒に焼肉を食べ、父のマンション前の道で見送ったところです。まさかあの場面が最期だったとは!と今でも思います。
今日もしれっと、しれっと。
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