東日本大震災から、今日で9年が経ちました。
当時わたしは、都内で会社員として勤めており、このブログも存在しませんでした。岩手の母も年相応の物忘れがあったとはいえ、認知症を発症する前で、まだまだ元気な頃です。
あの日のことを、振り返ってみたいと思います。
わたしが居た場所
地震発生時、わたしは東京・浅草橋の道を歩いていました。その日は仕事が忙しく、遅めのランチを外で取り、会社に戻る道の途中で大きな揺れを感じました。
こんな揺れ、経験したことない!
建物の中に逃げこもうと思ったのですが、ビル自体も倒壊するような気がしたので、道路の真ん中へ移動。地面に手をつき、空を見上げ、周りの建物を見回しながら、揺れが収まるのを待ちました。
帰宅難民が多かった都内でしたが、わたしはギューギュー詰めの都バスに偶然乗ることができ、19時には家に居て、ニュースを見ながら、岩手に住む母や妹の心配をしました。
被災地岩手といっても、盛岡市は内陸で、沿岸からは車で2時間近く離れています。津波の心配はないのですが、築50年近い家が倒壊しているんじゃないか、そう思いました。
はっきりは覚えてませんが、何日か経って家族の無事が分かってホッとしたことは覚えています。当時、被災した県内の知り合いはいなかったのですが、地震の翌年に始まる遠距離介護をきっかけに、多くの被災者の皆さんと、つながる機会が増えていきます。
お世話になったヘルパーさんたちはきっと・・・
認知症の母は、やたらと出身地を気にします。なので、訪問介護のヘルパーさんにも「どちらの出身ですか」と全員に必ず質問するのですが、ヘルパーさんがなぜか岩手県の沿岸部の方が多かったのです。
なぜ沿岸部の方がヘルパーを?と思いながら、わたしの頭の中では「東日本大震災で被災され、内陸の盛岡に引っ越したのかも」と思いました。もちろん質問はできませんし、わたしの推測が当たっているとも限らないのですが、こういうところにも影響は出るのだなと思いました。
震災から2年後に介護ブログを書き始め、本を出版するようになり、講演会で岩手県内を回るうちに、さらに被災した皆さんとつながります。
岩手県の沿岸部に行ってみると
岩手県は北海道の次に面積の大きい県なので、内陸部と沿岸部では相当離れていて、盛岡で暮らしていたときも、沿岸部には数回しか行ったことがありませんでした。
ところが震災後は、東京の友人や知人を陸前高田の奇跡の一本松に連れて行ったり、津波で家が流された場所の更地近くにあるそば屋さんに行ったり、書店回りで沿岸部の書店を訪問したりするようになり、盛岡に居た18年より、今のほうが多く足を運んでいます。
ジグザクなリアス式海岸を車で走ると、今はおだやかな太平洋を一望できるのですが、道路沿いには必ず津波到達点という案内板が至るところにあって、こんな位置まで津波が来たのか・・と言葉を失います。
被災した書店員の方からも、当時はあの位置まで津波が来たという話を聞き、あの位置と指で示すその場所が、あり得ない山の中腹を指していることに、なんと返事をしていいか分かりませんでした。
また講演会で、沿岸部の宮古や大船渡を訪問したときも、津波がこの高さまで来たと教えてもらったり、講演会場が避難所になったという話も聞きました。震災を経験した皆さんの表情や語り口は明るいのですが、言葉の重みが尋常じゃありません。
それなのに、わたしの講演を聴いて、介護の心配してくださるのです。なんて優しいみなさん。新刊が完成したらまた、沿岸部を訪問しようと思っています。コロナ終息しないかな・・・。
3月11日を岩手で迎えると、地元の新聞・テレビなどはやはり、東日本大震災の話題が多くなります。
皆さまにもきっと、それぞれの3.11があると思います。
あれから9年、皆さんの人生はどのように変化しましたか?
今日もしれっと、しれっと。
おはようございます。
私の場合の3,11です。
当時既に両親とも発症しており,要介護度5でしたので,介護施設に預かってもらっていました。
尋常じゃない大きさの揺れに驚くと同時に,施設入居で良かったと安堵したのを覚えています。案の定,陽気が良くなってから実家に出向いてみたら,たんす,食器棚が倒れ,台所には割れた食器が散乱していました。仮に在宅だったら,と思うと,ぞっとしました。
そういえば,13日(金)岩手日報に最終回が掲載されていましたね。
拝読いたしました。
今後の講演,執筆等ご活躍を祈念いたします。
減速生活者様
もし自宅だったら、不安でしたね。
数か月にわたるご愛読、ありがとうございました。
新聞からブログを見つけ、コメント頂きうれしかったです。