盛岡に帰省したとき、わたしは必ず仏壇に手を合わせる。
母はいつも、仏壇の近くにいるのだが、仏壇にお水をあげたり、枯れた花を捨てて新しい花を飾ったりすることを忘れてしまう。
認知症でも忘れる習慣と忘れない習慣があるのだが、仏壇に関しては居間の隣の部屋にあり、あまり目に入らないから、忘れてしまうのかも。
亡くなった祖母もきっと、母の状態を天国で理解しているはずだろうから、拝み忘れても問題ないとわたしは思っている。
ちなみに仏壇には祖母、わたしの兄の2人の位牌があり、27年別居して亡くなった父はいない。
仏壇のお花
わたしはだいたい2週間に1回のペースで、実家に帰省している。
仏壇の花を母は何もしていないので、記事タイトルの下の写真のようにしんなりしてしまう。
母が水を換えたり、新しい花を買ったりできないから、やむを得ない。
それでも、母に何か役割をもって欲しいので、いつもこのようにしている。
枯れた花を台所に置き(記事タイトル下の写真)、新しい花も下記写真のように置いておく。
こうしておくと、母はきちんと花を換え、そのタイミングで仏壇に手を合わせる。
母はできないことが多くなってきたから、やってあげようという気持ちが強くなるのだけど、そこはガマン。
お膳立てだけして、様子を見る。待つことも、立派な介護なのだ。
お鈴(りん)を鳴らして、母は拝む。
中腰で花を換え、その状態のまま、チンチーンと2回お鈴を鳴らす。
足が不自由なので正座が厳しいのと、座ってしまうと立ち上がるのに一苦労なので、中腰。
見た目にはいいかげんな拝み方だけど、天国の祖母は許してくれていると思う。
一旦拝むスイッチが入ってしまうと、母の様子は一変する。
再び、仏壇の部屋に入り、またお鈴をチンチーンと鳴らして拝む・・・5分前に拝んだのに。
間隔を空けず2回拝むこともあるし、調子がいい時は3回拝むこともある。まとめ拝みというわけだ。
和尚さんと以前話したとき、毎日拝むというよりかは、亡くなった人への思いのほうが大切と言っていた。
認知症になった今、母の正直な思いはどうだろう・・・
母の祖母に対する認知症介護は、悪い例の代表になるような酷いものだった。
何十年もケンカ口調でやりあってた親子だったから、それはそれは人様には見せられないものだった。
母は認知症介護のやり方を知らなかったし、自分もまさか認知症になるとは思ってなかったと思う。
そんな祖母に対しての母の評価は、意外にも優しいからよく分からない。
一方で、出て行って亡くなった父への評価は、とにかく厳しい。
いきなり会社の同僚を連れてきて、家に泊まらせたり、料理を作らされたりしたことを、今頃になって怒っている。
亡くなった父にはちょっとかわいそうな気もするのだけど、認知症になって空気が読めなくなった母の攻撃は容赦ない。
ある程度お膳立てをして、あとは自立に任せる。そんな仕掛けをもっと増やしていきたいと思う。
今日もしれっと、しれっと
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