母はケアマネさん、ヘルパーさん、訪問リハビリに来る作業療法士さんに対して、
と言います。2015年で最も聞いたフレーズで、家に来る皆さんもそう思っているし、信じて疑わないはずです。
ちなみにこのフレーズは、わたしが母にデイに行ってほしいから、何度となく繰り返し言った言葉で、今ではすっかり自分のものになっています。
しかし、ふとした瞬間に母はこうも言います。
そもそも人に会いたいとあまり思わない、独りが大好きな母。どちらが本音かと言われれば、行きたくないほうが本心。相反するこの2つのフレーズですが、なぜ母はデイは楽しいと言い続けるのか?
人は「一貫性」に弱い
一般的に仕事を転々とした人は低評価で、同じ仕事を何年もやっている人は高評価です。軸があってブレない人は高評価で、八方美人的な振舞いをする人は低評価です。
何が共通点かというと 「一貫性」 です。人は何かを一貫してやりとげることに対して高評価を与えるので、そのために一貫性を保ちます。また、余計な労力が発生するので、「一貫性」を保つほうがラクというのもあります。
「一度決めたことだから」
よく使う言葉ですが、これも「一貫性」を保つことで、周りからも高評価を得られるし、あれこれ他の選択肢を考える必要がないという自分の労力削減にもなります。
母も「一貫性」を守っている
「デイは楽しい!」
認知症とはいえ、あれだけ繰り返し公言してきました。認知症という記憶を忘れる病気においても、この「一貫性」は守ろうとするんだなって。
言った事は毎回わすれてますが、“長期で” 同じことを言い続けるのには、本人も無意識のうちに 「一貫性」 の力 “も” 働いているんじゃないかと。無意識で自分にコミットする結果になっているんじゃないかと。
アルツハイマー型ではなく、ピック病特有なことなのかもしれません。また、医学的な視点では、全く成り立たない話かもしれません。認知症と一貫性って、言葉としては全く合いませんし。
ちなみにわたしは、「一貫性」 も大切だと思っていますが、「柔軟性」 のほうがもっと大切だと思ってます。一貫してやってきたことも、ある時が来たら変更する “勇気” が必要だと。
自分は一貫していても、周りの環境が変化していれば変わらざるを得ないこともあります。そんなときも「一貫性」を行使すれば考える必要がなくラクですが、やはり考えるべきだと思います。
本能のままに行動することが多いので、デイ拒否するはずがなぜかしない・・・「一貫性」を理由にすると、納得できるんですよね、無意識にデイに歩を進める理由が。それか本当に楽しいと思い始めているのかも、デイ・・・
今日もしれっと、しれっと。
私の母親は存命の親戚を死んでしまっている事にしています。どんなに否定してその時は納得しても、日にちが開くと殺されています(笑)一貫性?これは思い込みですね。
せきぐさま
たしかに思い込みかもしれませんね(笑)うちも隣のおじさんが死んだと言っていたのですが、亡くなってしまってからは言わなくなりました。今度は別な人が新たに浮上してますが、もう2度目なので何とも思わない自分が今ここに・・・