父の脳梗塞の連絡を受け、最初に思い浮かべたのが、脳梗塞の父の兄の姿。
伯父は片半身の麻痺が残り、奥さんに介護されていて、わたしはその様子をずっと見ていた。
父は突然家を出て、自分の退職金で盛岡市内にマンションを買い、そこでひとりで暮らし始めた。
家出なので、わたしの母は父を介護できないし、妹は嫁ぎ、2人の子どもがいる。
わたしが介護するしかないと思った。伯父のような麻痺が残り、これから父の世話が一生続くのか?
当時、ケアマネジャーという言葉も知らなければ、包括も知らない。介護保険サービスがあることすら知らなかった。
慌てて岩手に帰ると父は、わたしに麻痺の残った口をモゴモゴさせながらこう言った。
麻痺が残っているのに、帰ってくるな!の意味が分からない。
それでも、脳梗塞なんか治してやるぞ!という気合だけは伝わってきた。
父の手はあまりに震えていて、文字にならないニョロニョロな字しか書けない。正直、気合でどうなるものでもないと思っていた。
ところが数か月で退院し、わたしは退院後にむしろ父に会うようになった。
タバコも一切止め、酒の量を減らすが、脳梗塞の後遺症は残ったまま。それでも父のこの一言で、わたしの将来への不安は大きく解消された。
そんなに歩けるまで回復したのなら、大丈夫なのかも。
新型コロナウイルスの影響で、わたしは今、亡くなった父が住んでいた盛岡駅近くのマンションに近い場所にあるビジネスホテルで暮らしている。
できるだけホテルに居て、ホテルの食事も大浴場も使わず、ひたすら部屋に引きこもっている。
こんな生活をしている中で、ふと思い出したのが「父の1万歩」。
生前、父はわたしに1万歩のコースを教えてくれた。
盛岡駅のそばに開運橋という橋があり、北上川が流れている。そこから川沿いをひたすら歩いて、鮭が遡上する中津川の上流へと歩き、リハビリしていると言っていた。
全く外出しないと息がつまるので、父の1万歩コースで散歩することに決めた。
北上川のすぐ横に、人がほとんどいない遊歩道があった。
あの開運橋は、父と最後に焼肉を食べるために渡った橋だ。
しばらく歩くと、北上川と中津川が合流した。中津川を上流に歩くと、岩手銀行赤レンガ館が見えてきた。
岩手銀行赤レンガ館は、東京駅で知られる辰野金吾氏の設計だ。
この中津川には、秋になると鮭が未だに遡上する。わたしも昨年、鮭を見つけた驚いたくらいだ。
中津川の鮭は、この中津川で生まれ、北上川を宮城県まで下って、北太平洋へと向かう。オホーツク海で数年過ごしたあと、ふるさとである中津川を、宮城県から200kmも北上してここにたどりつく。
中津川に掛かる橋、下の橋→中の橋→上の橋を見上げるようにして歩く。
上の橋には、国指定文化財等の青銅擬宝珠(ぎぼし)がある。
歩数計をセットし忘れたが、1時間20分くらいは歩いた。
麻痺の残る体で、父がこのコースを歩いたのかと思うと、少し感傷的な気持ちにもなる。
晩年は父とあんまり仲よくなかったけど、あの1万歩のおかげで今の自分があるのかもしれない。
今日もしれっと、しれっと。